わび太だより。~ワインと、ビールに、あと・・散歩?~

ワインとビールが大好物のわび太の日記です。安旨ワインとクラフトビール、東京散歩などをつづります。まったり続けようと思います。

明治のワイン造り苦闘の足跡。「日本のワイン・誕生と揺籃時代」麻井宇介著

「ウスケボーイズ」の映画と原作に触れて麻井宇介氏に感心を持ち、図書館で借りて著書を読んでみることにしました。

 閉架図書になっていましたが、「日本のワイン・誕生と揺籃時代ー本邦葡萄酒産業史論攷ー」という本がありました。

 

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タイトルを見て適当に手に取ったため、ワイン本かと思っていましたがむしろ歴史書

明治時代、日本ワインの黎明期の様々な造り手の苦闘の跡を調査したものです。

「論攷(ろんこう)」と見慣れない語がありいきなり敷居が高く感じます。調べてみると「論考」と同じ意味のようです。

 

読んでみると、明治初期の文明開化の時代背景、空気感も踏まえつつ解説しているのでなかなか面白いです。

 

本書によると、明治時代のワイン造りの歴史は以下のような流れをたどったようです。

(麻井氏の文章をかなり丸めています。)

 

【国産ワイン造りの推進】

  • 明治のはじめ、ワイン生産は国の政策として進められた。政府は米不足を解消するために(!)、日本酒の代わりにワインを国民に飲ませようと考えた。
  • 政府はアメリカやフランスから取り寄せた輸入品種を国内で試験栽培し、国内各地に提供。一方、元々ブドウを栽培していた山梨県では国内品種を使ったワイン造りが試みられた。
  • 明治3年(1870年)には山梨県甲府市の山田宥教(ひろのり)、詫間憲久が醸造開始(なお、麻井氏は、この2人については後代へ技術が伝承された形跡がほとんどないため、あまり重要視していない)。明治7年(1874年)には山梨県で赤白ワインが生産される。
  • 明治10年(1877年)、山梨県祝村葡萄酒会社(日本初の民間ワイン製造業者)設立。同社の土屋龍憲、高野正誠の二青年がフランス留学。2年後帰国し、ワインを醸造

 

【ワイン造り失敗へ】

  • しかし当時、国民の大多数がワインの渋く酸っぱい味に慣れていなかったため、そもそもワインのニーズがなく造っても販売が不振。
  • 明治11年1878年)の大久保利通暗殺ののち、政府の(ワインに限らず)農業推進の政策が変化し、ワイン造りの政府の後押しもなくなった。
  •  また、ワインを造る技術力も稚拙で、出来が悪く品質も安定しなかった。腐りやすさから製法が確立されており技術を学びやすかったビールと異なり、ワインの仕込みは一見ブドウを潰すだけに見えるため、製造技術を頭で学びづらく、風土の異なる日本での製造方法の確立に苦労した。
  • 一部の造り手はワインの質の悪さを品種のせいにして、(素直に甲州種などで造ればよかったのに)輸入品種に頼っては栽培失敗を繰り返し、さらに迷走。
  • さらに明治18年(1885年)、輸入苗木に付いていたフィロキセラが各地で猛威を振るった。これがトドメとなり、ワイン造りは衰退。各地のブドウ農家も生食用ブドウやリンゴ造りなどに転換。

 

【甘味ブドウ酒の隆盛】

  • 一方、明治19年1886年)、神谷伝兵衛が輸入ワインに蜂蜜で味付けした「蜂印香竄葡萄酒(はちじるしこうざんぶどうしゅ)」を販売しヒット。これらの甘味ブドウ酒が滋養強壮などをうたい文句に国内でメジャーに。
  • 少数の国産ワインも、甘味ブドウ酒に姿を変えたり、地元消費など限られたマーケットで命をつなぐことになった。これにより醸造技術については細々と伝えられ、戦後1970年代のワインブームを待つことになる。
  • ブドウ造りはワイン用から生食用が中心になり、それまで山梨県の特産だったものから全国に広がった。明治のワイン造りは失敗したが、ワイン造りへの挑戦を通してブドウ畑が全国に広がり、戦後の国産ワインづくりへの土台となった。

 

先人の努力に敬意を払い、丁寧に調査してまとめ上げた良書でした。

色々な苦労のあとに今の高品質の日本ワインがあるのだと、甲州ワインを片手に、読みながらしみじみ感じました。

  

なお、この本を読んで土屋・高野の二青年が修行したフランス・トロワ近郊の村が、モングー(Montgueux)と分かりました。

勝沼のぶどうの丘ではモーグーと書いてあったので場所が良く分からなかったんですが、スッキリしました。